阪神淡路大震災こと阪神淡路大震災のことその朝、私はいつもより少し寝坊をして、7時過ぎに目覚めた。 朝食の準備をしなくては・・と少し慌てながら、 (まだ夫も次男も起きていなかったので)目覚まし時計代わりにテレビをつけた。 しかし映像は見ず、台所に立ちながら音声だけを何となく聞いていると、 どこかで地震があったようだ。 その頃、北海道でも時々地震が起きていたので、 「また釧路あたりかな? ここでは何も感じなかったけれど・・」と思いつつ、テレビを見た。 そこには高速道路が倒壊し、グニャグニャになった衝撃的な映像があった。 (えっ、これは都会だな。どこだろう?) 次の瞬間「神戸市・・」という言葉が!! 私はそれを聞いた時に、全身の血の気が引いた。 長男が神戸の大学に進学していたのだ。 テレビの映像はどこの地域なのかわからなかったが、 神戸であることは確かなようだ。 頑丈であるべき高速道路の高架が倒壊しているのだ。 息子の住むアパートはどんな状態なのか? 慌てて電話に飛びつき、震える手で登録ボタンを押す。 しかし、受話器からは呼び出し音はおろか、何も音が聞こえなかった。 何度かけ直しても「無音」なのだ。 夫の話では、私はその時「大変だ!」と叫んでいたようだが、 自分では何を言っていたのかわからない。 ただ夢中で、呼び出し音が鳴ることを祈りつつ電話をかけ続けていた。 同時に、目はテレビに釘付けになっていた。 次々に報じられる情報は、最悪の事態を予想させるものだった。 私はあまりパニックにはならない方だと思うが、 その時ばかりは生きた心地がしなかったし、 とにかく「電話をかけつづけていた」ことしか思い出せない。 そのうちに、もしも息子の方から連絡しようとしても、 私が電話を使い続けていてはダメだと思いなおした。 すると今度は、私の実家や親戚からの電話が次々とかかってくる。 ベルが鳴って「息子からか?」と受話器を取った時に、 安否を問う電話と知った時の失望感。 申し訳ないが、それが正直な気持ちだった。 それだけに、8時頃に息子からの電話があった時の気持ちは、 今でも的確に表現することができない。 息子からの電話は、妙にのんびりしたものだった。 「停電になっていてテレビは付かないし、神戸市内には電話もつながらないんだ。ここ、どうなってるの?」 私は、ただただ安堵感に心が支配されていて、 詳しいことを問いただすこともできなかった。 ただ息子に問われるままに、テレビで流れている地震情報を知らせ、 「また、電話ちょうだいね」程度で受話器を置いてしまったと思う。 それからは、心配している身内への連絡などに追われた。 それからも、こちらからの電話は通じず、 一日に一度の息子からの連絡だけを待つだけだった。 長田区に火の手が上がり、 猛火の中で瓦礫の下敷きになっている人たちが亡くなっていくニュースを見ていると、 隣の垂水区にいる息子のことが気がかりで、 いても立ってもいられなかった。 在宅している時はテレビにかじりつき、 涙を流しながら被災者達の映像を見ていた。 私だって、ひょっとしたら息子の安否がわからぬまま、 あちこちの避難所や遺体安置所を、 必死に探し回ることになったかもしれないのだ。 震災当日、私は近所のコンビニで、 ペットボトルの水やすぐに食べることの出来る食料などを購入し、 小包にして息子に送った。 混乱の中で届くかどうか心配だったが、 水も電気もガスも止まっていると聞いたので、 そうせずにはいられなかったのだ。 宅配便だったか郵パックだったか思い出せないが、 何と通常と変わりない日にちで息子の所に荷物は着いた。 息子が借りていたアパートの周辺は、 比較的被害は少なかった地域であったが、 それでも倒壊家屋はあちこちに見られるようだったし、 もちろん電車などはまだ復旧していない。 そんな混乱の中で、 多分自宅や家族にも被害があったであろう人達が、 仕事を全うしていたということに、今でも頭が下がる。 息子は一週間後に帰省し、彼の顔を見た時にやっと、 心から安心することが出来た。 あの日から10年、 テレビでは特別番組が組まれ、様々な人間ドラマを放映している。 それを見ながら、人間は弱いけれどたくましいものだと思う。 耐えられないような苦しみや悲しみの中でも、 人間としての優しさや思いやりを忘れず、 亡くなった人たちの分までも誠実に生きようとする人達の姿に、 感動と共に心から感謝せずにはいられない。 そのような人たちの姿を見て、 ちゃんと生きなければと思わせていただくことに。 そして、人間は力を合わせ助け合うことで生きてゆけるのだということを、 あらためて教えていただけることに。 そして何よりも、 今、命があるということがどれほどありがたいことかを再確認する。 (2005年01月17日/記) ジャンル別一覧
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